徳大寺について

ごあいさつ

GREETING

当山は妙宣山徳大寺と称し,今を去る凡そ四百年前,慈光院日遺上人により創立せられ、開運大摩利支尊天を勧請し奉る。当時此の地一帯を広く、忍ぶが岡と称せしが以後全國より絶えざる善男善女の参詣により俄然活況を呈し、上野の地名を生むに至る。

そもそも摩利支天とは「陽炎」或いは「威光」と訳され、大自在神通の力ましまして、常に日天に先んじて進み、昼夜行住の別なく光を放ち、参詣祈願の面々に「気力、体力、財力」を与え「厄を除き、福を招き、運を開く」福寿吉祥開運守護を誓い給し、諸天善神中最も霊験顕著なる守護神と伝われる。

又宗門史上著名なる日親上人、全国の弘通に当り摩利支天王を守護神として奉持せり。げに数千年の久しきに亘り印度中國、我國に於いて招福得幸開運の益速やかなる霊験に依って、あまねく庶民の間に信敬せられ給いしものなり。

当山奉祀の尊天は、聖徳太子の御親作と伝えられ、頭髪上空に飛揚し、右手に利剣を掲げ、左手を開いて前方に捧げ、走猪の上に立たせ給う。是れ正しく諸難をしりぞけ、開運吉祥福寿無量を与え給う守護神であり、巨益霊験を施し給うこと枚挙にいとまなし。是れ即ち下谷摩利支天徳大寺の名四方に高き所以なり。依って有縁の清衆、現世安穏、後生善處を浄願詣られんことを祈る。

摩利支天 徳大寺

第32世 関 日修

摩利支天徳大寺縁起

MARISHITEN TOKUDAIJI ENGI

大奉額

本堂正面に掲げられる扁額「威光殿」。この扁額は吉田茂・元総理大臣の揮毫により、本堂復興の記念として当山へ寄贈されました。(写真は本堂落成時のもの)

摩利支尊天拝殿

明治44年11月、亥年の記念事業として当山から発行された『大摩利支天略縁起』に掲載された拝殿。明治・大正期における、当山の様子をうかがい知ることの出来る貴重な写真です。

当山(徳大寺)は江戸時初めの寛永年間に慈光院日遣上人によって創建され、正式には日蓮宗妙宣山徳大寺と申します。また、仏教の守護神である開運大摩利支尊天を奉安することから摩利支天徳大寺とも称し、下谷広小路(現在の上野広小路)に位置したことから、下谷摩利支天とも呼ばれて参りました。

寺宝として奉安する摩利支天像は、江戸時代中期の京都にて霊夢感得されたご尊像と伝わり、宝永五年(一七〇八)九月に当山へ安置されました。その一連の経緯は、文化十二年(一八一五)に発行された『摩利支天略縁起』に、次のように記されております。

「当寺奉安の摩利支尊天は、施無畏の後身、聖徳皇太子の御手彫なり。下総正中山法華経寺、第五十五世、成遠院日達上人、京北叡昌山本法寺貫頂として、既に正中輪番に下らんとて、東方弘通の擁護を祈られしに、或夜夢らく、尊天来臨ましまし、東の方に立たせ給うと。実に其年正月二日の夜なり。覚めて後、見に一?の霊像を感得し見るに、夢に拝する如く異なることなかりき。躬暫くも離たず。弘通功成りて、帰京の日、霊夢の事を思い、此尊天、東土に縁のましますとて、即ち当寺に什襲奉安し、永く自他の利益を仰ぎ願う。」

以後、聖徳太子の御作と伝わる御尊像に開運吉祥の御利益を授かろうと、全国よりの絶えざる善男善女の参詣により山門は俄然活況を呈し、いつしかその門前通りは下谷広小路の摩利支天横丁と呼ばれるようになりました。

時代は明治へと移り、江戸が東京と改められると、上野の街は東京市下谷区に編入されました。この頃には、毎月亥の日の御縁日に摩利支天横丁を中心に多くの露店が立ち並び、大変な賑わいを見せるようになります。その後、大正十二年の関東大震災、昭和二十年の戦災による火災類焼によって、堂宇は二度にわたり灰燼に帰しましたが、奉安の御尊像は幸いにもその都度焼失を免れて参りました。

そして終戦後の混乱期、闇市の出現などによる町並みの変化に伴い、移転再建が検討されながらもこの地に留まり、昭和三十九年十一月、堂宇再建の悲願が結実され全伽藍の復興を果たし、今日の姿に至っております。本堂正面の扁額「威光殿」は、威光の化身たる大摩利支尊天の拝殿の意として、吉田茂・元総理大臣の揮毫により寄贈されたものであります。

寛永の時代より凡そ四百年、寺社町として栄えた上野広小路の地に残る最後の寺院として今日も大摩利支尊天をお祀りし、有縁の清衆の現世安穏、後生善処の浄願を祈念致しております。

大奉額

本堂正面に掲げられる扁額「威光殿」。この扁額は吉田茂・元総理大臣の揮毫により、本堂復興の記念として当山へ寄贈されました。(写真は本堂落成時のもの)

摩利支尊天拝殿

明治44年11月、亥年の記念事業として当山から発行された『大摩利支天略縁起』に掲載された拝殿。明治・大正期における、当山の様子をうかがい知ることの出来る貴重な写真です。

摩利支天堂全景

大正12年9月の関東大震災の火災による類焼を受け、昭和15年11月に復興を果たした伽藍の全景。この写真は落成記念絵葉書の一枚で、現在のアメ横表通り側から撮影されたものです。荘厳なる建築様式を誇る総欅造の伽藍でしたが、昭和20年2月25日、戦災により惜しくも焼失しました。

本堂内陣

東京オリンピックが開催された昭和39年の11月、戦災からの伽藍復興を成し遂げ、今日の姿に至っております。写真は八ツ棟(権現)造、間口九間奥行十間の本堂落成時の内陣景観です。正面に大摩利支尊天、左には日蓮聖人、右には鬼子母尊神が祀られています。

摩利支天

MARISHITEN

当山は日本三大摩利支天のひとつとして、江戸時代から下谷広小路(現、上野広小路)において、聖徳太子の御作と伝わる摩利支天像をお祀りしております。
摩利支天(マリシは「威光・陽炎」の意)とは、仏教を守護する天部の神で、参詣祈願の人々に「気力・体力・財力」を与え、「厄を除き、福を招き、運を開く」、諸天善神中もっとも霊験顕著な守護神であると伝えられております。そのお姿が猪の背に立つことから、古くより十二支の亥の日がご縁日とされてきました。

人が摩利支天の名を知り念ずれば、一切の災厄から逃れ勝利の功徳を得るとして、我が国においては中世以降、武士階級の守護神として摩利支天への信仰が広まりました。楠木正成や足利尊氏、毛利元就や徳川家康などの武将たちは、摩利支天の尊像や旗印と共に合戦に出陣したと云われ、『忠臣蔵』で知られる大石内蔵助も髷の中に摩利支天の小像を入れて討ち入りに臨み、本懐成就を遂げたと伝えられております。まさに、諸難を退け勝利に導く、武門の護り厚き守護神として、町人文化が栄えた江戸時代中期以降には、民衆の間にも摩利支天信仰が盛んとなりました。

昨今では、「開運厄除・除災得幸」のご祈願はもとより、「家内安全・商売繁盛」などのご祈願、政治・芸能・スポーツに関わる方々の「必勝・心願成就」のご祈願など、我が身をお守りくださる「上野広小路の摩利支天さま」として、広く全国からの尊崇を集め、皆様よりご参詣いただき親しまれております。

開運大摩利支尊天像

聖徳太子の御手彫と伝わる摩利支天像。宝永5年(1708)に当山へ安置されて以来、幾度の災厄を切り抜け、今日も全国からの尊崇を集めています。